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vol.11

 「♪♪1人2人3人いるよ、5人6人7人いるよ、〜・・・・・・10人のインディアンボ−イ♪♪」これは、私が小学生になるちょっと前、5〜6歳の頃に覚えた数え唄です。
 この唄で『インディアン』という言葉をはじめて知りました。その頃の私は『インディアン』とは、頭に羽根飾りをつけて、口に手をあてて「ウォ、ウォ、ウォ、ウォ、ウォ」と叫ぶ人達のことだと思っていました。残念ながら、この先入観はこの仕事に就く直前まで続いていました。なぜなら中学、高校で習った世界史は白人側から見た歴史だったので『インディアン』とは、私にとって未開の野蛮人的イメ−ジにしかすぎませんでした。
 実店舗のココペリに来店してくれるお客様の中にも「インディアンの人たちって、今でも羽根飾りつけてるの?」なんて質問は日常茶飯事だし、もっと、驚いた質問もありました。レジ脇の壁に飾ってある額縁入りのジェロニモのポスタ−を指さして「あの方は、ここのお店の社長さんですか?」と真面目に尋ねているのです。今となっては、「プッゥ〜」と笑ってしまえる質問なのですが、でも、これは他人事ではない。実際私だってこの仕事に就くまで無知に近かったのだから、もしこの仕事をしてなかったら、こんな質問、私だってしてたかもしれない。
 日本人にとってアメリカとは一番密接な国だと思っていたのに、私をはじめ、案外アメリカのことって知らないんだな〜と思いました。それじゃ、逆にインディアンは日本のこと、どこまでしっているのかなぁ〜?どんなイメ−ジなのかなぁ〜?
 今回は、渡米した際に「あれっ、違うぞ!!」と思ったお話を通して、学んだことのおはなしです。
 ニュ−メキシコ州のサントドミンゴ族の村を訪れたときのこと。毎回お世話になっているご家族を訪ねました。そこの娘さん(娘さんといっても40歳くらいのおばさんなのですが)が、『私ね、お人形集めているのよ。この間も、このお人形を買ったのよ。このお人形、韓国のお人形でね、一緒に人形の服も買ってきたのよ。でも、あとでわかったことなんだけど、この服このお人形のサイズに合わないのよ。日本に帰国したときにさ〜、交換してきてくれない?』なんて言われたのです。確かに韓国ぽい人形だし、その服も韓国の民族衣装でした。しかし、帰国したからといって韓国の人形の服なんて売っていない。その由を伝えると、『じゃあ、韓国に行って買ってきてよ、どうせ近いんでしょ?』なんと、なんと。『はいはい、お安いご用!!』なんて言える問題ではない。近いといっても、やはり海外。それも無理だと伝えると、ガックリ肩をおとし、私達に期待をうらぎられたような顔つきになってしまいました。『それじゃ、日本ので良ければ見合うモノを探して次回持ってきます。』というと、なんとか納得してくれました。
 また、こんな事もありました。ナヴァホでの買い付けの際、日本から来たことをナヴァホ族の店員さんに伝えると『Oh〜、日本ね!!私、ブル−スリ−なら知っているわよ〜。今度、来るとき彼のポスタ−持ってきてよ。』と言われました。私は腹の中で「ブル−スリ−は中国人だよ。日本のね〜有名人はね〜、え〜と、え〜と、え〜と、あれっ?誰だっけ?」とブル−スリ−のことを訂正して日本の有名人を言おうと思ったのに、とっさのことでなかなか出てこない。『あははぁ〜』と適当にその場は笑ってごまかしてきました。

 意外と日本って知られてないんだな〜とさみしく思いました。共通していることは、日本も中国も韓国もアジアで一体化されてるということ。確かに見た目は、黒髪で肌の色も黄色人種で似ている。でも、それぞれに独立した国々で文化も言葉もそれぞれ違っている。そこのところが分かってもらえていない。
 なんとかして、日本を知ってもらいたい、でもいざとなるとなかなか語れない、そんな自分に腹ただしさを感じてきました。
 そんなとき、実店舗のココペリにリチャ−ドがやって来ました。彼は、2年ほど前からちょくちょく、お店に来てくれるアメリカ人で、八戸から車で30分ほどのところにある三沢市の米軍基地で働いています。出身は、サウスキャロライナ州。ココペリで扱うインディアンジュエリーとは全く関係のないところの人なのですが、私達が度々渡米したりすることや店にアメリカの地図を飾ってることなどから、彼にとっては居心地が良いらしいのです。そして彼は、来店の度に基地内で買ったアメリカのお菓子を手みやげに持ってきてくれます。「モノをくれる人=いい人」という、私のゲンキン主義な頭の中で、リチャ−ドはとっても良い人にランクアップされました。
 そんなある日、リチャ−ドは、『アメリカに行ったとき、なにか美味しいモノたべた?』と聞いてきました。私は『本場のハンバ−ガ−は、やっぱりおいしかった。日本食が恋しくなるとチャイニ−ズレストランがいっぱいあって食べ物には不自由しなかったよ。でもね、1番のヒットはケイジャン!!!』と答えたのです。すると、リチャ−ドのただでさえ大きな目が更に大きくなり、輝きが増していました。『ケイジャンは、ぼくの郷里の郷土料理なんだよ!!』と、すごくうれしそうでした。
 リチャ−ドの郷里とは全く離れたところを旅している私達が、このケイジャンを通じ、彼の文化に触れたことが、彼にとってなによりうれしかったのです。アメリカ全土はハワイやアラスカをのぞけば、陸続きなので文化や風習など一体だと思っていました。しかし、それぞれの地方によって、いろいろ違いがあって食文化もいろいろなのだ。広いアメリカの数ある中のケイジャンが好きだと言われたリチャ−ドの感激はよほどのことだったのでしょう。
 「あ〜、そうか!!私は、これまで日本のことを知ってもらおうと意地になってたぶん、何をどう説明してよいのか困惑していたのだ。日本全体のことより、自分の住んでるところの話をすればいいんだ、そうだよ!!!」
 ということで、先日の渡米の際に、いつものようにサントドミンゴのあの娘さんのところへ行きました。今回は、お人形の服を探せなかった代わりといってはなんだが、私達が子供の時から食べ親しんでいる八戸名産の南部せんべいをお土産として持っていきました。南部せんべいは、小麦粉と食塩で出来ていて、素朴な味がし、子供の頃には、みずあめやマ−ガリンをつけてよく食べたものでした。
 彼女はもらったそばから、目の前で封を切り、ボリボリと食べ始めました。私達がまだそのせんべいの説明をしているのに、聞こうともせず。そして、『うん、おいしい。おいしい。』と何度も繰り返し、食べていました。私達が見た限り、お父さんや、お母さんにもすすめながら、彼女はたて続きに2〜3枚は食べていたなぁ〜。
 お口に合ったことはもちろんですが、それ以上に私達の郷土文化に触れてくれたことが何よりもうれしかったです。
 リチャ−ドとの何気ない会話で、私は、肩の力を抜くことができました。そして、インディアンの一家族に私達の文化にふれてもらえることができ大変うれしく思いました。
 ありがとう、リチャ−ド!!!
 しかし、リチャ−ドは、もう居ない。昨年の秋に沖縄へ移動してしまったからです。彼が沖縄へ発つ2日前、別れを告げに最後の来店をしてくれました。そのときに、『リチャ−ド、ここを見て!!これは今までリチャ−ドがくれた食べ物の空き箱を捨てないで飾ってたんだよ。今まで気づかなかったでしょう?ここは、リチャ−ドのコ−ナ−だからね。いっぱい、ありがとうね。』と伝えると、リチャ−ドはうっすらと目に涙を浮かべていました。

 あれから、約半年。リチャ−ドからの連絡はない。連絡のないのは元気な証拠!彼のことだから、元気に過ごしているに違いない。

 〜リチャ−ドへ〜
 ありがとう、リチャ−ド。
 たくさんのお菓子や思い出を!!
 早くステキな彼女orお嫁さんが見つかりますように!!
 それでは、お元気で・・・・