vol.12
買い付けで渡米するたびにいろんな人と様々な出会いをする。
行く度にお世話になる人、顔見知りになったお店屋さんのお姉さん、
そこに行くと、必ず待っているおなじみの顔がある。
逆に、たまたま居合わせた人たち、例えば、飛行機で隣になった人、
ス−パ−マ−ケットで同じ列に並んで、レジ待ちしていた人・・・とか。
直接会話をしたわけでもなく、もう2度と出逢えなそうな人たち、
そんな、一度きりの短時間の出会いの中でも、やたらとインパクトがあり、
忘れたくても忘れられない、旅の土産話にひと花咲かせてくれる人たちもいる。
そんな人たちを「DAWA日記」では、【旅ネタな人たち】と命名した! |
「グランドキャニオンに行くと人生観が変わるらしいよ〜」という話を以前、友人から聞いたことがあった。グランドキャニオンは、ホピ居留置にも近く、ホピ族にとっては『母なる大地の裂け目』と言われる神聖な場所でもある。ホピ族の祖先はこのグランドキャニオンの裂け目から地上に出現したといわれている。いざ、自分がグランドキャニオンに行くにあたり、この偉大な大自然を目の当たりにし「私の人生観は、どう変わるのかな〜?」と期待しながら、グランドキャニオンへ向かった。きっと私は、大自然を目の前に、何かを感じとり、悟り、少し大人になって帰っていくのだろうと勝手に思い込んでいた。さあ〜、どうなる私の人生観!!!
グランドキャニオンに到着、まず最初の予定は日没を見ることだった。日没を見るために、デザ−トビュ−にやってきた。ガイドブックによると《名前の通り、断崖の向こうには遙かな地平線まで続く砂漠が見渡せる》とある。なるほど、なるほど、ガイドブックにはウソはなかった。目の前に広がる大峡谷。はるか下を流れる細い川が作り出したとは、創造もつかない。そして断崖には、いくつもの地層がしましまにハッキリと見ることができる。思わず『ふぅ〜』とため息が出てしまった。
日没には、まだ時間があるので展望台に建つ「ウォッチタワ−」に入ってみた。ウォッチタワ−は、煙突のような筒状の塔で、1932年に古代インディアンの遺跡からデザインをうつして造られたそうだ。中には、インディアンの壁画が描かれていた。
もう間もなくして日没というあたりにウォッチタワ−を出た。いつのまにか、あふれんばかりの人々。それでもなんとか自分たちの場所を確保。場所もカメラの準備もO.K。あとは、日の沈むのを待つばかり。そうこうしている間も太陽は下へ下へとみるみる傾きかけていく。
この広大なるグランドキャニオンの景色、そしてまさにこのグランドキャニオンに沈もうとしている夕日。さっき見たときより、数段神秘的である。地面すれすれの日の光は、グランドキャニオンに光と陰の部分を作り出し、より立体感がましている。平坦な高原からこんなにも深い峡谷を作り出すには、どれだけの時間が流れていったことだろう。そして、ここ最近こんなに時間をかけて夕日を眺めたことがあっただろうか?・・・・などなど、徐々に気分は酔っていた。・・・・・・・・・がしかし・・・。
どこからともなくイヤにバカでかい耳障りな声がしてくる。誰かと会話をしているらしいが、なぜか1人の声しか聞こえてこない。不思議に思い声の出所を目で追うと、ほんのちょっと離れた隣に神経質そうな40代くらいの白人のオヤジがいた。白いキャップをかぶり、黒のサングラスをしたやせ型で背の高いひょろっとした感じ。白人のオヤジは相変わらず何かまくしたてている。しかも、あの素晴らしいグランドキャニオンの夕日を背にして・・・
「この人、いったい何しにここに来ているのだろう?」。なぜなら、彼の立っているポジションは何の障害もなくこの壮大な景色を堪能出来る場所だからだ。それなのに彼は、夕日も見ずに、しかも夕日を背にしてバカでかい声で何か話している。一緒に来ているらしい連れの人たちは、適当に相づちはしているものの、ちゃんと聞いてるふうではなかった。そんな周りの様子もお構いなしに、彼は1人でまくしたてている。
「ウァ〜」と、至る所から歓声が湧いた。いよいよ日没だ、私達も妙なオヤジに気を取られている場合ではない、めったに見に来れないグランドキャニオンの夕日なのだ!周りからも、感激の声やらカメラのシャッタ−を押す音が聞こえてきた。・・・が、なぜか夕日に集中できない。その歓声やシャッタ−音を押し消すかのように、相変わらずヤツは夕日を背に演説している。好奇心旺盛な私は、彼に集中してしまった。
彼の早口の会話の中から、拾える単語を拾って盗み聞きしてみると、やたら数字が出てくる、出てくる。あまりのすごさに口をぽか〜んと開けて聞き入ってしまった。どうやら推測するに「ここのハバは何メ−トルで、高さは何メ−トル、・・・・」とノンストップ。(私の経験上、白人のオヤジにはこのての人が多い。まるで評論家のように数字にやたら詳しく、どうでもいいような事を、近くの人に自慢げに話すのだ。)
ヤツは、チラリとも夕日を見てはいなかった。私は、夕日も見ずに、ヤツのノンストップを聞き入った、というより見入ってしまった。よくもま〜、舌がもつれずにあんなに早くしゃべれるな〜、次から次へと数字が出てくるな〜と感激してしまった。私達が、彼に気づいてからでも、もう30分以上になる。実に、素晴らしかった。
あっという間に夕日はすっかり沈み、周りの人たちも徐々に減ってきた。私達も宿泊先の確保の為、ゆっくりとはしてはいられず帰り支度をして駐車場へと向かった。
そんな中、相変わらず、薄暗いグランドキャニオンにヤツの声はこだましていた。
この場を借りて読者のみなさんに、『グランドキャニオンで見る夕日は素晴らしいですよ!!機会がありましたら、ぜひどうぞ!!!』と、私の経験をもとに終わりたかった。・・・が、どうも私の記憶の中では、グランドキャニオンの素晴らしい夕日よりも、あの夕日を背に見向きもせず話しまくる、あのオヤジしか浮かんでこない。
彼の記憶の中では、グランドキャニオンの夕日はどのように映っているのだろう?いや、きっと彼にとって夕日などどうでもいい事なのだ。夕日より、周りの誰かに語った、その事の方が大切なのだ。私も彼のように、何事にも(すばらしい夕日にも)動じずマイペ−ス(他人の迷惑も顧みず)で自分を見失わず生きていきたいと思う。もしかして、私の人生観は、あのオヤジに変えられた?
『グランドキャニオン』そこは、人の人生観を変えてくれる場所である?
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