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vol.15

 デスバレ−、日本語に直すと「死の谷」。少々不気味でもあるが、なんとなく神秘的なヒビキもある。ガイドブックによると、ゴ−ルドラッシュのカリフォルニアに一攫千金を夢見て白人の一行が近道をとりデスバレ−を横断しようと1848年のクリスマスにこの谷へ踏み込んだ。しかし、行く手を3000メ−トル級の山々にさえぎられ、水と食料不足、プラス疲労が重なり進退きわまっていた。その時、青年2人が西への道を発見し、食料を持って戻ってきた。彼らの道案内のおかげで一行は山を越えることができた。その時、一行の1人が“Goodbye Death Valley”と言ったそうだ。これが、デスバレ−の名の起こりだと云われている。
 さらに、ガイドブックの説明によると、10月から3月が快適なシ−ズンで、それ以外の月には日中50℃を越える日もあり、車のオ−バ−ヒ−トの為に給水タンクが所々にあるという。
 何年か前に読んだ「グランドファ−ザ−」という本では、アパッチ族のグランドファザ−とよばれるインディアンがヴィジョンの探求の為行った、デスバレ−での死と隣り合わせの苦行が描かれていた。
 いつもの買い付けル−トからは、かなりはずれる事になるが、死の谷デスバレ−とは、一体どういうところなのか?あまりイメ−ジが湧かないままデスバレ−へ向かうこととなった。
 朝7時、ラスベガスの宿泊先のタダコ−ヒ−を飲みながら、デスバレ−へ出発。約200キロ、3時間のドライブが始まった。ハイウェイにのって30分くらいすると、徐々に車の数も減ってきて、まっすぐ道路の脇に自分のヒザ丈くらいのサボテンが見えてきた。視線のずっと先には草木が一本も生えていない砂山のようなハゲ山がいくつもいくつも見えてきた。やっぱり、砂漠なんだな〜としみじみ思った。
 ラスベガスとデスバレ−のだいたい真ん中に「インディアン・スプリングス」というところがある。なんか、その名に惹かれて急きょ道草をくうことになった。(本当は、通り道のカフェのBreakfast steak という看板にひかれてなんだけど...)。カフェに入ると、すぐに数台のスロットマシンが置いてあり、ラスベガスのような雰囲気。ウエイトレスの案内でカフェに入ると、全くきどった感じのない田舎のカフェだった。外の看板通りちゃんとメニュ−にBreskfast Steak とあった。テ−ブルについたとき、それがとてもうれしくなった。6オンスのステ−キ、ハッシュドポテト、目玉焼きに食パン。一緒にオ−ダ−したレモネ−ドもボリュ−ム特大で大満足の食事だ。食事も終盤にさしかかった頃、ウエイトレスが伝票を置いていった。なにげに目を通すと、自分が食べたステ−キセットは3.98になっており、もう1人が食べていたセットは5.98となっていた。その人が食べたセットというのは、自分のステ−キを数切れのベ−コンに替えただけで後は全く同じだったのだ。見るからに絶対ステ−キの方がボリュ−ム大だし食べ応えもある。なんか、とっても得した気分になり、インディアン・スプリングスを後にした。
 それから約30分くらいでネバダ州とカリフォルニア州の州境。「WEICOME TO CALIFORNIA」の看板が出迎えてくれた。
 さっきまで少し遠くに眺めていたハゲ山が、今では両サイドにで〜んとそびえたってきた。道は徐々に上りとなり、道路脇の標識は海抜4000(mかfeetは忘れましたが、多分feetだと思います)を告げていた。そして、今度は下り道になり標高もだんだん低くなっていく。とうとうsea level になったところで、デスバレ−が目の前に広がる。
 とりあえず最初はダンデスビュ−へ。ダンデスビュ−へは、かなり急なグネグネの坂を登っていく。そこでは、デスバレ−を一望に見下ろすことができる。デスバレ−は、まわりを高い山々に囲まれた盆地のような場所である。ここにくると、そのことが一目で分かり、スタ−トにはもってこいの場所である。その代わり、風をさえぎる物が全くないので強風を直に身体で受け大変な思いをした。タンデスビュ−の番人であるかのように、案内板の下にいたカラスが印象的だった。私たちが近寄っても逃げようとはせず、強風にさらされていた。羽根がやや乱れてて一層雰囲気がでていた。
 ビジタ−センタ−があるファ−ニス・クリ−クに来ると景色は一転、一見リゾ−ト地?と勘違いしてしまいそうだった。キャンピングカ−が何台もとまっており、みやげ屋やカフェが連なっている、椰子の木のようなものも植えられていて砂漠であることすら忘れるところだった。ダンデスビュ−では、気がつかなかったが、日差しが確かに強い。2月でも半袖で十分である。
 まず、ビジタ−センタ−で入園料を払い(車一台につき10ドル)、併設される博物館に入った。ここの地形の説明やここに生きる生物などの説明があった。死の谷と呼ばれるわりに、実に多くの生物が、ここで生きている事に驚かされた。また、この辺に昔住んでいた、ショショニ−族の事や、恐竜の骨がディスプレ−されていたのが、とても印象に残った。
 再び車で行動開始、ガイドブック3つ星のア−ティストパレットへ向かった。ガイドブックによると、「色彩豊かな丘がつらなって、誰かが絵の具を塗ったみたい。」と、実際は・・・。
 次は「悪魔のゴルフコ−ス」。ユニ−クなネ−ミングのこの場所は、塩の結晶と泥が混じり合った、激しい凹凸の場所である。人間ならゴルフはおろか、普通に歩くこともままならないようなところだ。しかし、悪魔ならここでゴルフができるだろうというところからきているらしい。このネ−ミングと地形をみて、ずっと前にTVでみた「鬼の洗濯板」と呼ばれる日本のどこかの海岸が、私の頭の中をよぎった。日本人もアメリカ人も考えることはいっしょなんだな〜。
 そして、私たちの最終見学地「バッドウォ−タ−」についた。テレビなどでおなじみの白く真っ平らなデスバレ−の代名詞のような場所である。車を降りると、その先には真っ白な塩の大平原が何キロにも続いている。ここは、西半球の最低地点といわれていて、海抜はマイナス85.2メ−トルだそうだ。昔は「塩水湖」だったそうで、今でも所々に誰かが掘ったらしい穴があり、その底には水がしみ出している。
1年前に行ったNM州の「ホワイトサンズ」(白い砂の砂漠)も一面真っ白で、チョットだけダブルところがあったが、実際歩いてみると全く違うものと分かった。歩くときに、シャリシャリと足に感触が伝わってくる。雪でもなく砂でもなく今までに体験したことのない感触だった。くつ底を見てみると、くつの溝にびっしりと真っ白く塩がへばりついていた。誰も足を踏み入れてなさそうな所を見つけて、指で軽くほじくってみて、塩をなめてみた。思ったほど塩辛くなくミネラルたっぷりで栄養がありそうな、いがいにいける味だった。
 過ごしやすい季節に行ったということもあり、おかげさまで、死にそうな目には遭わなかった。暑ければク−ラ−をかけ、のどが渇けばアイスクリ−ムやジュ−スを買うことが出来た。しかしこれが夏で、大昔のようにコンビニなどがなかったらどうだったのだろう。飲み物もなく、暑くて、きっと私などは干からびて死んでいたことだろう。
 この過ごしやすく快適な今回のドライブは「死の谷」とは無縁のまま終わってしまった。
 それから4日後、我々は帰国した。その後もしばらくは、靴底にバッドウォ−タ−の塩が、しつこくへばりついていた。